亀井静香 おもしれ〜

広島県庄原市川北町(旧・比婆郡山内北村)で農業を営んでいた亀井素一・静恵夫妻の次男として生まれる。父は終戦まで山内北村の助役を務め、終戦後は県の嘱託として開墾事業に携わった。

広島市修道中学校に入学。
修道高等学校2年生時に、通学定期券の購入に必要な通学証明の発行を学校が有料化したことに対して批判ビラを配る。
これが学校側の不興を買い学校を放逐される(自主退学)。



上京
自主退学後は東京大学法学部に進学していた実兄郁夫を頼りに上京し、東京都立日比谷高等学校東京都立九段高等学校編入試験を受けるが入学を許可されず、東京都立大泉高等学校に編入
好きになった女の子に広島弁を笑われ振られて奮起、見返すため猛勉強し同校卒業後1956年、東京大学教養学部文科II類に入学。

駒場寮に入りキャバレーのボーイ(顔が接客業に不向きと言うことで、裏でおしぼりを作らされていたらしい)、
家庭教師などのアルバイトをして学費、生活費を稼ぐ。
学生時代は「マルクスの亀井」と呼ばれるほど、マルクス経済学に精通していた。また他校の合気道部の学生を糾合して「日本学生合気道連盟」を結成、その初代委員長を務めた(なお副委員長は大平正芳の長男である)。段位は学生時代に三段を取得した。

またアメリカの水爆実験反対を訴えるストライキが原因で退学となった友人を救うため、ハンストを決行する。
その後、1週間あまりでドクターストップとなったが、大学当局はその友人の退学を取り消した。

1960年、同大学経済学部経済学科を卒業。大学時代はほとんど勉強しなかったため、就職試験にことごとく落ち、かろうじて大阪の別府科学工業(現住友精化)に入社。
この頃ガンの宣告を受けるが後に誤診と判明。ちょうど60年安保闘争が起こった年で、テレビで国会周辺を取り巻くデモ隊の姿を見ていたら、警察がデモ隊に好きなようにやられていて「なんでこんなに弱いんだ。よし、オレが警察に入って強くしてやる」とカーッとなって一年で会社を辞める。
猛勉強の結果、国家公務員採用上級(甲種・行政)試験に3番の成績で合格、警察官採用上級試験に7番の成績で合格。



警察庁
1962年、学士入学していた同大学経済学部商業学科を卒業し、警察庁入庁。
鹿児島県警察本部捜査第二課長、鳥取県警察本部警務部長、埼玉県警察本部捜査第二課長等を歴任。鹿児島時代には徳田虎雄と親しくなり子息の後に徳田毅の媒酌人務めた。
鳥取時代には鳥取県議であった日本社会党野坂浩賢と親しくなる。

1972年、連合赤軍あさま山荘事件、成田空港事件、テルアビブ空港事件の捜査に初代の警備局極左事件統括責任者として参加。血なまぐさい事件の担当ばかりで家庭を顧みる余裕はなく、女房に逃げられ京浜急行に二度ほど飛び込もうと思ったこともある。15年警察を続けたが、いくら警察で頑張っても所詮、社会の「ゴミ掃除だ」と。
社会のゴミを出さないようにするには政治家になるしかないと1977年、警察庁警備局理事官、長官官房調査官を経た後退官。
政界を引退した永山忠則の地盤にて350万円の退職手当を元手に立候補準備を始める。



プライベート
離婚歴があり、今の妻とは再婚である

養神館合気道6段。趣味はゴルフと油絵。学生時代にアルバイト先で初めて食したシュークリームが大好物で、学生時代から安価でよく食したラーメンも好物である。

尊敬する人物はチェ・ゲバラ大塩平八郎

サウナでよく会うというビートたけしに、狂言師和泉元彌の母・和泉節子に似ているとネタにされている。
そのたけしの要請で2009年11月23日放送の『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日系)にゲスト出演した。本人も自身の容姿を気にしているらしい。学生時代にアルバイトしていたキャバレーでも顔がいかついから客席係にしてもらえず、おしぼり作りをやらされた。
同じ仕事をするなら政治家だってイケメンの方がいい。もっと見映えのする顔だったら、といつも思っているという。

埼玉県警捜査2課長時代、県内の居酒屋にいた亀井は近くの客がヤクザ風の男3人に絡まれているのを目にして、3人をたたきのめした。
店内は騒然とし、パトカーが出動した。
警察庁幹部の間では亀井を退官させるべしとの強硬論も強かったが、佐々淳行がかばったため亀井は退官せずにすんだ。

青嵐会以来の親友といわれる石原慎太郎と、高速道路を走行中の車内で激しい言い争いとなり、怒った亀井が車から石原を引きずり出し路上に置いてけぼりにしたことがあるという。
亀井は「あいつ(石原)はわがまま過ぎる」と話していると言うが、石原は「オレのような上品な人間には、亀井みたいな下品な人間がいた方が丁度いいんだ」と話している。



以上wikiより転載




追記
亀井は、熱心な死刑廃止論者である。