論語と親鸞
二十歳前半の頃、生きる寄る辺を求めて読書に明け暮れたときがあった。
当時、特にのめり込んだのが論語だった。
貝塚茂樹、金谷治、吉川幸次郎、宮崎市定、吉田賢抗らの訳本を蒐集して読んでいた。
しかし、いくら読んでもあまりピンとこず、
自分は頭が悪いからだと、諦めていた。
ただ、論語の
「言、忠信、行、篤敬なれば、蛮貊の邦と雖も行なわれん」(衛霊公篇15-6)
という言葉が好きで、ずっと座右の銘の一つとしている。
それから時は経ち、親鸞聖人の教行信証を知ったとき、
言いようのないデジャヴュを感じた。
それが何なのかわからず、ずっと考えあぐねていた。
最近、呉智英の「現代人の論語」を呼んだ。
目からうろこだった。
白眉なのは、親鸞の教行信証が論語の影響を受けていたというくだり。
「未能事人、焉能事鬼」(先進篇11-12)
これを親鸞聖人は
「未能事、人焉能事鬼」
と、解釈する。
著者は、ここで
「儒教の現実主義はさらに際立ち、それが後の親鸞思想の完成を準備する。」
と、記す。
すべてが氷解した。
私が感じたデジャヴュの正体は、論語という原体験だったのだ。
論語の魅力については、おいおい語ってみたい。
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